記事
預言の成就として来られた方
第1部(全2部)
牧師 Dr. John C. Lawrenz
1993年、Dr. Martin Luther Collegeで開催されたシンポジウムで最初に発表 · 第1部 · 第2部
キリスト者には共通点があります。彼らは、主イエス・キリストこそが自分たちのすべてであると知っています。キリストの最初の来臨は、あらゆることに意味を与えます。キリストの再臨は、あらゆる事柄に決着をつけます。永遠の昔から、父なる神は御子の来臨を計画しておられました。御子は従順に、父の筋書きに従われました。聖霊なる神は、人間を代弁者として用い、世に知らせ続けておられます。使徒たちは、「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、……巧みな作り話を用いることはしなかった」のです(Ⅱペテロ1:16)。目撃者として、彼らは「イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのこと」について、確かな事実を私たちに伝えています(使徒1:1–2)。しかし、この使徒たちの証言は、私たちの信仰を強め、確かにするために与えられている二つの証言のうちの一つにすぎません。「預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった」のです(Ⅱペテロ1:19)。私たちには、成就した預言があるのです。
預言は告げ知らせ、また予告します。それゆえ、「預言者は告げ知らせ、預言者は予め告げる」という警句があるのです。預言が告げ知らせるとき、それは揺るぎない岩のように確かです1。それは、人間の罪と神の恵みという偉大な真理を包含しています。一方、預言が予告するとき、それは同じく確かでありながらも、未完結です。預言には成就が必要なのです。イエスが生まれるまで、その生涯と御業は「まだ」実現していないものでした。預言者たちにとっては、いまだ完全には現されていない神の愛が、神の存在そのものと同じように確かであると信じるだけで十分でした。
しかし、モーセも、イザヤも、ダビデも、全体像を見ていたわけではありません。まだ来ておられない救い主について預言したとき、これらの人々の信仰は、その方に向かって手を伸ばしていたのです。預言者たちは、完全に啓示された救い主を見、その声を聞くことを切望していました。神はその知恵によって、預言者たちの切望を満たされないままにされました。では、預言者たちの言葉は、実体のない、脈絡のないうわ言だったのでしょうか。そうではありません。モーセ、イザヤ、ダビデ、そしてその他の預言者たちは、わらをもつかもうと手探りしていた者たちではありませんでした。キリストの霊が彼らのうちで働いておられたのです。旧約の預言者たちは「たずね求め、かつ、つぶさに調べ」、「自分たちのうちにいますキリストの霊が……あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べた」のです(Ⅰペテロ1:10–11)。
神の預言は、明日の天気についての気象予報士の予測以上のものでした。預言者の言葉は、申命記18章14–22節、とりわけ21節と22節に示されている単純な基準によって測られました。預言者の予告が正しく実現したなら、神が語られたのです。しかし、主の名によって宣べられた言葉が実現しなかったなら、神はその預言者と共におられず、その預言者の言葉は信じるべきではありませんでした。長い年月をかけて、神は来たるべきことのモザイク画を、預言を一つずつ加えながら組み立てていかれました。やがて、イエスが来られたときに、信仰の人々がその方をありのままに見分けられるだけのものが、そろったのです。
イエスご自身も預言者でした。しかし、イエスは「かの預言者」であられたため、他の預言者たちとは異なっていました。彼らと同じように、イエスは宣べ伝えられました。彼らとは異なり、イエスは成就されました。イエスは、ご自分が誰であり、なぜ来られたのかを知っておられました。ヘブル人への手紙の著者は、「キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、……『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」と語っています(ヘブル10:5、7。詩篇40:6–8からの引用)。イエスは人間の肉体をとられた神であり、神の完全な愛を現す完全な証人でした。イエスは、ご自分こそが預言者たちの待ち望んでいた方であることを知っておられました。イエスは、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」と言われました(マタイ5:17)。イエスは、ご自分が預言者たちの書いたすべてのことの確証であることを、世に知ってほしいと願われました。エマオへの途上で、イエスは「聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです(ルカ24:27)。イエスはモーセから始めて、すべての預言者に及ばれました。それをなさるのに十分な時間がありました。エルサレムからエマオまでの7マイル(約11キロメートル)の道のりは、おそらく2時間ほどかかったことでしょう。復活祭の夕方、イエスは側近の弟子たちに、「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」ことを思い起こさせられました(ルカ24:44)。それ以前にも、イエスは力を込めてこう言っておられました。「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)。
弟子たちは、預言と成就とを容易に結びつけることができたのでしょうか。すぐにはできませんでした。イエスは弟子たちを、「心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない」とお叱りになりました(ルカ24:25)。預言者たちと同じように、使徒たちも、心を開いていただくためにキリストの霊を必要としていました。しかし、ひとたび預言と主イエス・キリストとの結びつきが明らかになると、預言の成就は、使徒たちの教えにおいて尊く力強い原動力となりました。使徒パウロはこう書いています。「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」(ローマ15:4)。ペテロは、成就した預言を「暗やみに輝くともしび」とみなしました(Ⅱペテロ1:19)。
新約聖書には、イエスと預言とを結びつける旧約聖書からの引用や暗示がちりばめられています。使徒たちの旧約聖書の用い方はさまざまでした。マタイをはじめとする福音書記者たちは、「預言者によって言われた言葉が成就した」とか「こう書いてある」といった導入句によって、何十回も預言と成就に注意を向けています。こうした言葉の後には直接の引用が続きます。福音書と使徒行伝には、そのような引用が48以上あります。ペテロとヨハネは使徒行伝4章11節で詩篇118篇22節を引用し、「あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石」と述べて、ユダヤ人が何をしたのか、そして神がそれをどうされたのかを、サンヘドリンに突きつけました。使徒行伝7章のステパノは、律法と神殿に反対しているという告発に対して、旧約聖書の歴史物語を用いて自らを弁明しました。彼の同僚の執事ピリポは、エチオピア人のために、イザヤ書53章をキリスト中心に解釈しました(使徒8:32–33)。直接の引用に加えて、新約聖書は語句の選び方においても旧約聖書を反響させています。その好例が、変貌の際に天から語られた言葉です(マタイ17:5)。「これはわたしの愛する子」は詩篇2篇7節から、「わたしの心にかなう者である」はイザヤ書42章1節から取られており、結びの言葉「これに聞け」は申命記18章15節から来ています。
では、イエスの最初の来臨と再臨の間に生きている私たちはどうでしょうか。私たちには、歴史上のイエスについての反駁の余地のない証言として、使徒たちの御言葉があります。御言葉によって生まれた私たちの信仰は、主の誕生、死、復活、昇天についての聖書の証言を聞くたびに強められます。イエスが、かつて弟子たちと共におられたように肉体をもって私たちと共におられるわけではないにもかかわらず、私たちは信じています。なぜ信じるのでしょうか。それは、イエスが私たちのために生き、死に、よみがえられたことを、キリストの霊が私たちに確信させてくださるからです。
ある人々は言うかもしれません。自分には霊的な使命があると主張した人物はほかにもいた、彼らも歴史上の人物ではないか、と。ゴータマ・ブッダやムハンマドはどうなのか。ゾロアスターや孔子はどうなのか。ジョセフ・スミスやデビッド・コレシュはどうなのか。キリスト教以外の宗教は、歴史に時折現れる並外れた人々の倫理、カリスマ、知的な鋭さ、あるいは高い道徳的感受性を根拠として、人々の魂を自らのものとしてきました。キリスト教は違います。それは、真の人を通してなされた真の神の真の啓示であり、その方の来臨は、歴史のまさに初めから、神の霊感を受けた代弁者たちによって予告されていました。主イエス・キリストは唯一無二の方です。ヨハネによる福音書の冒頭の章が宣言しているとおり、この方は受肉した御言葉です。人の造った宗教は、人間の舌で語られる人間の言葉によって神を定義します。神だけが、ご自身を定義されるのです。神は出エジプト記3章14節の「わたしは、有って有る者」です。受肉した御言葉に関する預言は、イエスの唯一無二の生涯のための舞台を整えました。使徒たちの証言は、この方が唯一無二であることへのあらゆる疑いに対して、扉を固く閉ざします。「預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった」のであり、私たちは「この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」のです(Ⅱペテロ1:19)。
しかし、ここで問いが生じます。預言者たちが主イエス・キリストについて語るとき、私たちはどのようにしてそれに目をとめればよいのでしょうか。どのようにして預言の真理のともしびを燃やし続ければよいのでしょうか。私たちの罪深い性質は、私たちのうちにおられるキリストの霊に逆らって戦うので、もっと適切な問いを立てることができるでしょう。どうすれば、預言の光を消してしまわずにすむのでしょうか。
預言者と使徒との結びつきを無視すれば、預言の光は消えてしまいます。聖書は一つのまとまりです。私たちの頭にある二つの目のように、旧約と新約のそれぞれがキリストを見ています。一方は予告し、他方は成就します。この二つが合わさって、私たちに霊的な「奥行き知覚」を与えてくれるのです。旧約聖書の預言は、大きなタペストリーの糸のようであり、画家のキャンバスに置かれた絵の具のひと筆ひと筆のようです。芸術作品に鼻をくっつけるようにして見ても、はっきりとは見えません。一歩下がれば、その情景は明らかで、畏敬の念を起こさせるものとなります。一歩下がって預言と成就の両方に目をとめるとき、私たちは預言者イザヤや使徒パウロと共に、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と言うことができるのです(ローマ15:21;イザヤ52:15)。
預言の光を消してしまうもう一つの方法は、新約聖書によって旧約聖書を理解するのではなく、逆に旧約聖書によって新約聖書を定義してしまうことです。私たちの二つの目のうち、一方が利き目であることは知られています。聖書も同じです。神がシナイ山でイスラエルと結ばれた契約関係について、新約聖書は「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」と宣言しています(ローマ10:4)。行いによらず信仰によって罪人を義とされる神の義認こそが、事の核心です。不信実なイスラエルについての旧約聖書の物語は、人間が神への忠実の誓いを守ることができないということの、一つの壮大な証拠です。イエスは、新たな立法者となって人類を再びくびきの下に置くために来られたのではありません。むしろイエスは、聖であり、聖であり続けることのできた、歴史上ただひとりの人間として来られました。イエスがそうされたのは、神が御子の義を価なしの賜物としてすべての人に転嫁してくださるためでした。預言の言葉は、救い主の美しい絵を囲む見事な額縁のようなものです。それは、キリストの完全な生涯というまばゆい宝石をはめ込む、すばらしい台座なのです。
聖書自身が一つのたとえを示しています。旧約聖書は影であり、新約聖書は本体です。パウロは、旧約聖書の儀式的な規定について論じているコロサイ人への手紙2章17節で、そのように述べています。「これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」2。ヘブル人への手紙の著者(10:1)は、神がモーセを通して命じられた旧約聖書の血のいけにえを取り上げています。そのようないけにえは、「きたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではない」のです3。
旧約聖書の真理は、新約聖書において開花します。預言者たちの言葉はつぼみです。花のすべてはつぼみの中にありますが、その真理は固く包まれ、一部が隠されています。花が咲くまで、真理は十分に見られることも、味わわれることもありません。イエスこそ、その花なのです。
預言の証言の力を弱めてしまうさらにもう一つの方法は、本文に手を加えることです。御言葉こそが最終的な言葉です。聖書の最初の記者と最後の記者であるモーセ(申命4:2;12:32)とヨハネ(黙示22:18–19)は、神の言葉に手を加えることに対して厳粛に警告しています。私たちは、使徒たちが明らかに宣べ伝えていることに付け加えるような、キリストについての何かを、預言者たちのメッセージの中に見いだしてはなりません。また、預言者たちが御霊の促しによってキリストの奥義にもたらした、霊感による洞察の全幅を、預言者たちから差し引いてもなりません。
旧約聖書のどれほどが預言なのでしょうか。そのすべてでしょうか。大部分でしょうか。一部でしょうか。それとも、新約聖書の中で預言であると明確に示されている箇所だけでしょうか。この問いにどう答えるかは、解釈に影響を及ぼします。
パウロは、神の家が「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」と断言しています(エペソ2:20)。こうしてパウロは、二つのグループの記者たちが私たちの信仰の土台を据えたと教えています。使徒たちは証人でした。しかし、預言者たちもまた証人でした。使徒たちは、預言が、私たちがすぐに預言と同一視する16人の記述預言者(イザヤからマラキまで)に限られないことを知っていました。ヘブル人への手紙の著者は、「モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であった」と述べています(ヘブル3:5)。使徒ペテロは、「サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。あなたがたは預言者の子であり……」と断言しています(使徒3:24–25)。ダビデについて、ペテロはこう言います。「彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って……」(使徒2:30–31)。モーセ、サムエル、ダビデは、ヘブライ語聖書の三つの部分、すなわち律法、預言者、諸書のすべてにわたって語った神の人々の、ふさわしい代表者です。
旧約聖書のすべてが預言であると言うのは、行き過ぎでしょうか。旧約聖書の39の書には、歴史、伝記、道徳的教訓、夢、議論、その他多くのものが含まれているのではないでしょうか。確かにそうです。こうした人間的な事柄は、イエスの完全な人間性を予示しています。とりわけ、使徒ヨハネが、書き記せば世界も収めきれないほどの書物になると述べている、記録されなかった細部を予示しているのです(ヨハネ21:25)。私たちは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いると信じています(コロサイ2:9)。さらに私たちは、使徒パウロが「あなたがたは、キリストにあって、それに満たされている」と言うとき、その言葉を信じます(コロサイ2:10)。そうです、霊感を受けた聖書のすべての部分が何らかの形でキリストを指し示しており、旧約・新約の神の言葉を通して、神が私たちにキリストにおいて持たせようとしておられる約束の満ち満ちた豊かさを、私たちは自分のものとすることができる、と言うのは決して行き過ぎではありません。私たちにはこの励ましがあります。「自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。……聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(Ⅱテモテ3:14–15)。ルターは、サムエル記下23章1–5節の注解の中でこう書いています。
私たちキリスト者が聖書の意味と趣旨を手にしているのは、新約聖書、すなわちイエス・キリストを持っているからです。この方は旧約聖書において約束され、後に現れて、聖書の光とまことの意味を携えて来られたのです。……なぜなら、それこそがすべてのかかっている最も重要な点だからです。私たちキリスト者が宣べ伝えている、イエス・キリスト、神の御子と呼ばれるこの人を、正しく、まことに持たない者、あるいは持とうとしない者は、聖書から手を引くべきです。私はそう忠告します。そのような者は必ずや無に帰するでしょう。学べば学ぶほど、ますます盲目になり、愚かになっていくでしょう。その者がユダヤ人であれ、タタール人であれ、トルコ人であれ、キリスト者であれ、あるいは何と自称しようとも4。
旧約聖書のすべての部分が同じ程度に預言的である必要はありません。預言者たちの語ることのあるものは、探照灯のように際立っています。ほかのものは、ぼんやりとした影を投げかけるにすぎません。預言者たちの貢献は、キリストのからだである教会を形づくる肢体の貢献と似ています。それぞれの肢体はからだの一部ですが、すべての肢体が目や耳であるわけではありません。ある肢体は、より小さな、しかしそれでも重要な働きを担っています。旧約聖書がキリストをはめ込んでいる額縁には、多くの角度があります。台座には多くの面があります。つぼみには多くの花びらがあります。影には多くの縁があります。
新約聖書が預言の成就であると明示している箇所から始めるのが、常に賢明です。これらは際立つ探照灯です。それらは、旧約聖書の残りの部分を注意深く探るすべを学ぶための光です。明示された預言は、解釈者として働かれる聖霊を私たちに示してくれます。一つのことがすぐに目に留まるでしょう。引用のほとんどは、イエスの人格と御業に関わるものです。預言と成就の結びつきをすぐに把握できることもあります。聖霊の解釈が、私たちの予想とは違っていることもあります。このことは、なぜ預言者たちが自らの預言を熱心に探らなければならなかったのかを浮き彫りにしています。
新約聖書に引用されている預言は、救い主のあらゆる側面に触れています。たとえば、イエスがどなたであるか、イエスが何をするために来られたか、どこに現れるか、神のご計画がいつ、どのように実行されるか、そしてなぜイエスがそれほど重要なのか、ということです。いくつかの例を挙げてみましょう。ダビデによれば、イエスは主なる神であり(詩篇110:1;マタイ22:44)、まことの人でもあります(詩篇8:4–6;ヘブル2:6–8)。しかもイザヤによれば、罪のない方でした(イザヤ53:9;Ⅰペテロ2:22)。イエスの宣教は、イザヤが語ったとおりガリラヤで行われることになっていました(イザヤ9:1–2;マタイ4:15–16)5。しかし、ゼカリヤによれば、救い主はエルサレムに現れることになっていました(ゼカリヤ13:7;マタイ26:31)。イエスは、人類に神の道を教えるため(詩篇78:2;マタイ13:35)、人々のわずらいと病を負うため(イザヤ53:4;マタイ8:17)、そしてイザヤが預言したとおり、彼らの傷をいやすために来られました(イザヤ53:5;Ⅰペテロ2:24)。ゼカリヤによれば、弟子たちはイエスを見捨て(ゼカリヤ13:7;マタイ26:31)、イエスが敵に刺し通されるままにするのでした(ゼカリヤ12:10;ヨハネ19:37)。イエスは、のろわれた者として木にかけられることになっていました(申命21:23;ガラテヤ3:13)6。それでも、そのからだの骨は一つも折られることがなく(詩篇34:20;ヨハネ19:36)7、そのからだが墓の中で朽ちることもないのでした(詩篇16:10;使徒2:31)。むしろイエスは、栄光のうちに神の右に座されるのでした(詩篇110:1;使徒2:34)。救いは終わりの日に現れ、聖霊の注ぎを伴うことになっていました(ヨエル2:28–32;使徒2:17–21)。そして御霊は、イザヤによれば、宣教の言葉を通して注がれるのでした(イザヤ61:1–2;ルカ4:18–19)。では、なぜこのように注がれるのでしょうか。「預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」(使徒10:43)。
イエスと直接結びつけられている預言の研究をし尽くしたなら、私たちは、「たずね求め、かつ、つぶさに調べ」、「自分たちのうちにいますキリストの霊が……あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べた」預言者たちの傍らに立つことになります(Ⅰペテロ1:10–11)。短い論文では、見いだされるものの一部を示すことしかできません。ここでは使徒信条の第二条の言葉を用いることにします。それは、イエスに関する使徒たちの教えの要約です。イエスについて述べる使徒信条の語句に並べて、新約聖書のメッセージの完全な真理を予示していた旧約聖書の概念や主題を集めてみましょう。
私たちはイエスを信じます。イエスとは、マリヤの子のために神が選ばれた特別な名です(ルカ1:31)8。それは「主は救う」という意味です。旧約聖書は、主による救いの御業の連続です。箱舟の中で守られたノアとその家族(創世6–9章)、紅海を導き通されたヤコブの子孫(出エジプト14章)、わしの翼に乗せられて神の山へと運ばれ(出エジプト19:4)、羊飼いに導かれる羊のように約束の地へと運ばれたイスラエル(詩篇78:52–55)、神の民をのろうという使命を阻まれた魔術師バラム(民数22–24章)、太陽が止まったアヤロンでのヨシュア(ヨシュア10章)と、過去の神の救いの御業を振り返った告別の時のヨシュア(ヨシュア24章)9、わずかな手勢でモレにおいて勝利したギデオン(士師7章)、エベネゼルでイスラエルの運命を好転させたサムエル(Ⅰサムエル7章)、ゴリアテを打ち倒したダビデ(Ⅰサムエル17章)、プリムの時のエステル、獅子の穴の中のダニエル(ダニエル6章)、そしてエズラとネヘミヤの時代にシオンへと連れ戻されたイスラエルの残りの者たちです。
私たちはイエス・キリストを信じます。キリストとは「油注がれた者」という意味です。イエスは、旧約聖書の油注がれた者たちが試みながらも果たせなかったことのすべてを成就するために召されました。アロンの祭司職は、400年近くにわたってシロで神の民の霊的な必要に仕えました。祭司たちは、いけにえをささげるため(ヘブル5:1)、儀式的に清いものと汚れたものとを区別するため(レビ10:10)、そして民を教えるために(レビ10:11;マラキ2:7)油を注がれました。しかし、祭司たちは神の完全さの基準を満たすことができませんでした。金の子牛を造ったアロン(出エジプト32:1–6)から、聖所を汚したエリの息子たち(Ⅰサムエル2:12–17、22、25)に至るまで、祭司たちは罪人でした10。
神は、国民を牧するため(Ⅱサムエル5:2;7:7)、また神の真理の守り手となるために(申命17:18–20)、王たちに油を注がれました。ダビデやソロモンのように民の霊的な必要に仕えた王もいましたが、皆がもろい土台の上に立っていました。ダビデのバテシバとの罪とウリヤの殺害は、王国を引き裂く一連の反乱の引き金となりました。ソロモンはその知恵にもかかわらず、モーセ(申命7:25)とヨシュア(ヨシュア23:7、12)が定めた三つの禁令、すなわち異民族との結婚、カナン人との条約、偶像礼拝の禁止を破ったとき、よく治めることができませんでした。イスラエルの最初の王サウルは、自ら命を絶ちました(Ⅰサムエル31:4)。ユダの最後の王ゼデキヤは、エルサレムと神殿がくすぶる中、王族の子孫が殺されるのを見せられた後、目をつぶされました(Ⅱ列王25:7)。
預言者たちは、真理を、真理のすべてを、そして真理のみを語るために油を注がれました(Ⅰ列王17:24;22:16)。旧約聖書の終わりの時代、預言者たちはひときわ高くそびえ立っていました。彼らは罪を説き、恵みを宣べ伝えて、堕落し偶像礼拝に陥ったイスラエルが、当然受けるべき律法ののろいを受けることのないようにしようとしました。しかし、預言者たちは、滅亡へと向かうイスラエルの転落を止めることはできませんでした。彼らの失敗、そして旧約聖書のすべての「キリスト」(油注がれた者)たちの失敗は、来たるべき、よりすぐれたキリストを待ち望むよう、イスラエルを教え導いたのです。
私たちはそのひとり子……イエス・キリストを信じます。神に代わって語った預言者ホセアは言いました。「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。わたしが呼ばわるにしたがって、彼らはいよいよわたしから遠ざかり……」(ホセア11:1–2)。主は、人類をご自分の家族に加えたいという願いを示すために、すべての国々の中からイスラエルを選ばれました。シナイで結ばれた契約を通して、天の父はイスラエルを、すべての国々の長子として選び出されたのです(出エジプト4:22;エレミヤ31:9)。
この真理は、長子のあがないを通して世代ごとに新たにされました(出エジプト13:11–13)。エジプトを出る際、諸部族の長子は、長子一人につきレビ族の男子一人を取り分けることによってあがなわれました。レビ人の数が足りなかったため、何人かの長子は銀5シェケルであがなわれなければなりませんでした(民数3:11–13、41)。その後の世代を通して、長子のあがないには引き続き金銭が用いられました11。レビ人は、旧約聖書の残りの時代を通じて「あがないの代価」であり続けました。彼らの特別な務めは、祭壇で仕え、いけにえを焼き、律法を教えることでした(申命33:8–10)。「長子」はまた、ダビデの王座を継ぐメシアなる世継ぎを表す言葉としても用いられています(詩篇89:27)。
旧約聖書において長子という概念がどれほど強いものであったとしても、レビ人もイスラエル人も、神のひとり子を予示する以上のことはできませんでした。イスラエルは、父の完全な愛に対して、自らの完全な愛をもって応えることができませんでした。イスラエルは最初から放蕩息子であることを示しました。「われらの先祖たちはエジプトにいたとき、あなたのくすしきみわざに心を留めず、あなたのいつくしみの豊かなのを思わず、紅海で、いと高き神にそむいた」(詩篇106:7)。士師記の冒頭の数章は、世代から世代へと人々がいかに信仰から迷い出たかを語っています。イスラエルにおけるレビ人の「聖職者」の失敗は、士師記17章から19章で浮き彫りにされています。後に十部族は、子牛にひれ伏すことによって長子の権利を汚しました(Ⅰ列王12:28–30)。それは、彼らの先祖がかつてシナイ山で行ったことでした(出エジプト32:4、8)。イスラエルとユダの王国は、過度に宗教的でした。儀式も、いけにえも、神々もあり余るほどありました。しかし預言者たちは、多くの父から生まれたこの宗教を断罪します。それは、ただひとりの父との契約から離れてしまっていました。そこには父の慈愛が欠けていました。実際、父がイスラエルに愛を注げば注ぐほど、父に選ばれた「子」は父から遠く迷い出たのです。道を踏み外したイスラエルは、罪深い人間は神との契約を守ることができないということを、はっきりと示しました。この不可能性こそ、パウロのローマ人への手紙の冒頭の数章の主題です。
父のひとり子であるイエス・キリストは、律法を完全に成就したただひとりの人間でした(ヘブル4:15;ローマ5:17)。イエスはまことの長子であり(ローマ8:29)、すべての造られたもの、あらゆる被造物の長子であり(コロサイ1:15–16)、また死人の中から最初に生まれた方です(黙示1:5)。その御業によって、イエスは「天に登録されている長子たちの教会」を造り出されます(ヘブル12:23)。マタイ(2:15)は、天の父が、かつてイスラエルを呼び出されたのと同じように、ご自分の長子でありひとり子である方をエジプトから呼び出されたことを指摘しています。この御子は、イスラエルとレビ人が失敗したところで成功されました。イエスは「異邦人を照す啓示の光」であり、「み民イスラエルの栄光」でした(ルカ2:32)。
第2部に続く →
注
1 英語では、予期されることを表すのに動詞の未来時制を用います。ヘブライ語の文法はそうではありません。ヘブライ語の動詞体系は、確実性と不確実性という概念によって機能しています。この二つのうち、預言を表現するために好んで用いられるのは確実性のほうです。
2 ギリシア語のσκιά(「影」)は、光が遮られることによって生じる像で、細部のない輪郭を示すものです。一方、ギリシア語のσῶμα(「本体」)は物理的なからだを指します。
3 ここで「真のかたち」にあたるギリシア語はεἰκώνであり、似姿に対して、まさにその像そのものを意味します。
4 Oswald & Robbert, Luther as Interpreter of Scripture(Concordia, 1982年)121頁より引用。
5 イザヤは、メシアの光がゼブルンとナフタリの地、すなわちガリラヤに現れることを予告しています。マタイは、イエスがナザレ(ゼブルン)からカペナウム(ナフタリ)へ移られる場面でイザヤを引用しています。
6 十字架が恥ではなく救いの手段であることも預言されています。モーセは、死にかけている人々を救うために、荒野で青銅の蛇を掲げました(民数21:8–9)。イエスはこれを、ご自分の十字架によってもたらされる永遠のいのちの賜物に当てはめておられます(ヨハネ3:14–15)。
7 過越の小羊の骨は折ってはならないとされていました(出エジプト12:46;民数9:12)。
8 イエスの誕生に至るまでの何世紀にもわたって、神は、しばしば救済史の重要な出来事と結びつけて、名を与えたり変えたりするために介入されました。主は、アブラハムに「多くの者の父」(創世17:5)、サラに「[王たちの]王女」(創世17:15)、ヤコブに「[神と]争って勝つ者」(創世32:28)という新しい名を与えられました。旧約聖書の信仰者の名の多くは、証しとなる短い文でした。たとえば、エリヤは「わが神は主」という意味です。天使は、イエスの先駆者を「ヨハネ」、すなわち「神は恵み深い」と名づけました(ルカ1:13、60)。
9 告別に際して、ヨシュアはイスラエルに、神の契約を守りたいかどうかを問いました。彼らが守ると答えると、ヨシュアは、成功は神の介入によってのみもたらされることを彼らの心に深く刻みつけました。ヨシュアは、偶像礼拝からのアブラハムの召し、イスラエルのエジプト脱出、バラムの企ての挫折、そしてカナンの征服を挙げました。
10 聖書は指導者たちをありのままに描いています。これは、古代の諸外国の指導者たちがめったにしなかったことです。イスラエルの指導者たちの失敗は、完全な油注がれた者であるイエスの完全な成功と、意図的な対照をなしています。
11 ミシュナBerakot viii, 8によれば、これは男子の誕生後40日目に行われました。マリヤとヨセフは、イエスを宮に連れて来た際、おそらくこの慣習に従ったのでしょう(ルカ2:27)。

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